ライブラナチュテラピー株式会社 社長ブログ
ライブラナチュテラピー株式会社
アロマテラピーブランド「ライブラナチュテラピー」商品の製造販売やサロン運営、「ライブラ香りの学校」の運営など、全国を拠点として「セラピー」「癒し」をお届けしています。
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アロマの履歴書(9)アロマテラピーフォーラム95
95年は阪神淡路大震災の年であったが、その秋、日本のアロマ界において歴史的なイベントが開催された。「アロマテラピーフォーラム95」である。

フレグランスジャーナル社社長の津野田さんの音頭で、同社主催のイベントとして開催されたのであるが、
その際のパネルディスカッションに私は招かれた。これも、震災の時のやり取りの中、津野田社長が私のことを気にかけてくださっていたからかもしれない。

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誰がパネラーとして発表したか、記憶は薄れているが、写真は左から慶応病院の三好ゆかり先生、私(林)、薬剤師の増田(熊谷)千津先生、マザーズオフィスの宮川明子先生であることがわかる。(写真右下の日付はまちがい)

この時のディスカッションでは、アロマが注目される状況において、日本のアロマテラピーはどうあるべきか?
というような漠然とした話題であったとおもうのだが、津野田社長の思惑では、「協会設立の必要性」という落としどころがあったように思う。私も、「精油は使い方を誤ると危険、まずは安全を確保するための業界の自主手な注意喚起が重要で、そのためには一業者がするのではなく、団体のようなものが必要」と発言した。

ある意味、その後の日本アロマテラピー協会(現AEAJ)の設立に向けての方向性が打ち出されたイベントであったことは間違いないだろう。

このイベントの後、年の瀬も押し迫った12月の中旬、私は東京丸の内のある会議室に呼び出された。そこには津野田社長をはじめ、栗崎小太郎先生、尾上豊氏、宇田川遼一氏、林真一郎先生、そして私の6名がいた。「日本アロマテラピー協会」の設立準備会であった。

ここに後に公益社団法人にまで成長する、日本アロマテラピー協会の最初の瞬間があった。また、この会議の招集において、フレグランスジャーナル社の津野田社長はいつも中心的な役割をはたしていたが、後に各方面からのいろいろな意見におされたこともあってか、「マスコミに籍を置く者は中立であるべき」として、潔く、この表舞台から退かれたのである。

この協会の設立と前後して、日本アロマテラピー学会、アロマコーディネーター協会、少しおくれてNardなどが設立され、マスコミ人としての立場が難しくなったというのが、その理由らしかった。しかし、津野田社長の業績は、彼をAEAJの生みの親として讃えるのに十分なものであるとおもう。
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by libranatutherapy | 2012-08-28 12:56 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(8)阪神淡路大震災がアロマに「癒し」というはっきりとした方向を与えた
1995年1月17日午前5時46分、神戸、芦屋、西宮、淡路島の北部を中心に震度7の地震が襲った。ゴーッという地響きで目をさました次の瞬間、激しい揺れにみまわれた。

私は長女と並んでシングルのベッドで寝ていたが、その2つのベッドがまるで拍子木にように、ガンガンとぶつかり、隣の家屋の屋根瓦のすべてが滑り落ち、我が家の壁に激突する音は、まるで飛行機が墜落したのかというような音。隣の家は全壊であった。我が家や新築3か月であったが、早くも亀裂がはいってしまった。
それも、その筈、いろいろなことがわかってくると、近所で高速道路から、バスがぶら下がっている。
亀裂程度で済んだのは、不幸中の幸いだったのだ。

私の人生は、この地震で大きく変わったとおもう。いい意味でも、悪い意味でも・・・悪い意味はおいておこう。
いい意味では、「癒し」に日本中の人々の目が向いたということだ。
ボランティアが、大挙して被災地に向かったのもこれが最初の大事件であった。

アロマが進むべき方向、それはホビーなのか、医療なのか、方向性は定まっていない時期にあって、
「癒し」という方向性を得たのもこの災害が、あったからこそとも思う。

その震災においての忘れられないことは、ボランティア活動の芽生えである。
日本人がボランティアに目覚めた事件といって過言ではないが、まだまだ独りよがりで未熟なレベルであったことは否定できないだろう。

その思い出のひとつ、フレグランスジャーナル社の津野田社長から、アロマや化粧品関係者からのお見舞いを届けたいが、林さんに送ったら必要な人に届けてくれるかと電話があった。
私は、仮設のお風呂で使う石鹸をおねがいしたところ、石鹸や入浴剤などが送られてきた。

全国から、被災地に何か役に立ちたいという思いで、物資が山のように送られてくる。
古着やスニーカー、タイ米など、だれも見向きもしないような、なかば粗大ごみ同然のものも多かった。
私は青年会議所のメンバーとして、体育館いっぱいになった物資を整理する仕事をしていた。
いつまでたっても、使いようのないものが山ほど送られてきては、無造作に積み上げられ、小中学生は
秋になっても体育の授業もできないありさまだった。

送る側の思いと、受け取る側の思いがまったく噛み合ってない状況で、山積みされた物資を前に途方に暮れる毎日だった。

ある日、あの津野田社長から、「林さん、石鹸を送った方がたに手紙でもなんでもお礼をおねがしします。何も言ってこないと怒ってらっしゃるかたもいるので。。。」との電話がはいった。

このときの、私の気持ちは、あえて書きたくない。読者の方が察してくださるに違いない。
私は広告費をつかってアロマトピアにお礼の広告を、寄付してくださった会社の名前を入れて気持ちをあらわした。この支援において、私のバランスシートは完全にマイナスであった。
また、支援者であるボランティアと、被災した私の間に挟まれて苦労されたのは津野田社長だったにちがいない。

テレビでは、被災地に行ってきたというタレントたちの武勇伝が語られる。
一方で被災者には、被災後の人知れない苦労がさらに追い打ちをかけてくる。
誰のための支援なのか???  わからなくなるばかりだった。

3.11の震災のことをみて、日本社会はずいぶん成熟したものだとおもう。神戸の教訓がいかされているとおもった。支援はお金で。(配られ方は問題だけれど)ボランティアは組織化され、職人的なたくましさすら感じるようになった。

震災から1年ほどが過ぎ、「兵庫県こころのケアセンター」からライブラに電話が入った。
仮設に一人住まいのお年寄りを相手に、アロマテラピーの授業をやってくれないか?
という、依頼だった。

お年寄りに、しかもアロマのオイルとは無縁とも思われる人々に何ができるだろうか?
私は悩んだ。自らの経験で身に染みているように、独りよがりなものになってはいけない。
そう思った。

私は、悩んだ末に、一人で行くのではなく、アロマの教室に通う生徒さんたちを巻き込むことにした。
ボランティアを募って、グループでアロマのハンドとフットのトリートメントを行うことにした。

はじめに私がアロマについての簡単なレクチャーを15分程度して、そのあと、お年寄りたちの手や足に触れ、さわるのである。

すると、「あー気持ちいいなー」「こんな若い人にやってもらって悪いな、でもうれしい」とか、
いろいろな反応。おおむねいい反応だった。

依頼をした側のこころのケアセンターの職員である保健師の方々からも、「こんな、おばあちゃんたちの姿はじめて」とか、「いつも、黙っている人がしゃべってくれた」とか、感激して私に話しかけてくれた。

お年寄りの中には、ボランティアの足をさすってくれる人さえもいて、いつも受ける側に回る被災者が
あえてボランティアのために行動することで、自尊心を回復することも分かった。

これは、アロマのパワーを実感したイベントであった。このイベントは好評で、そのあとも4,5回お呼びがかかることになり、何度も生徒さんたちの協力を得て、なんとかやりきった。

このとき、気づいたのは、カウンセリングとか、心のケアとかいう理屈には、いつも話を聞くという態度が大切といわれるが、その方法論で行き詰っていた仮設住宅のケアが、アロマとタッチング(香り、触れる)という要素で現実、成果があがるものになるということだった。これは、アロマ史上とても大きな発見である。

これは、のちにNYの同時多発テロ現場へのセラピストの派遣をしたIFAや、3.11にも引き継がれることになる。

この経験は、後に作られる、日本アロマテラピー協会のインストラクター資格にも生かされた。
いまのインストラクターカリキュラムのなかにある、「ボランティア論」「タッチング論」は、この私たちの経験から組み入れられたものである。

ボランティアはどうあるべきなのか???

タッチングは、人の心をいやすかもしれない!!

そんなことを、あの混乱の中、学んだような気がするのである。
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by libranatutherapy | 2012-08-17 17:50 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(7)日本のアロマの父、栗崎小太郎先生のこと
91年の暑い夏。お盆のころのこと。私はオリジナル精油「ライブラ」をもって、東京都内のハーブショップを行脚した。ハーブの本などの後ろに載っているハーブショップのリストを作り、それをもって都内のハーブショップに飛び込みセールスすることが目的であった。

最初は市ヶ谷から歩いたと思う、左手に靖国神社をみてしばらく行ったところの右手、ビルに中2階に「ハーバードハウス」というハーブのお店があった。これが以前、高山林太郎先生に教えてもらった栗崎小太郎先生のお店であることは知っていた。

入り口から入ると、「いらっしゃい」と、神経質そうな顔つきで自分の父親くらいの男性がでてきた。当時55歳くらいであられたとおもう。「わたくし、林と申しまして、大阪から来ました。エッセンシャルオイルをみていただけないかとおもいまして。」こういう私に、先生は顔色を変えて、「業者なら裏口から入りなおせ!」といって、私を一蹴した。私は、あわてて裏口へ。とはいっても3メートルほどおくの同じようなガラスドアだった。

彼は、「ライブラ?」聞いたことあるな?といって、再び顔色を変えた。
「お前のところのO氏ってやつに、精油を売ったが代金をもらっていないが!」と私に詰め寄った。
私は「O氏はライブラの人間ではありません。講習会に場所を貸したことがあるだけです。」
私は弁明した。そう、あの履歴書(3)の最後に登場したO氏である。O氏はライブラの教室で、ハーバードハウスで仕入れたロバートティスランドの精油を、私に隠れて密かに販売していたのだ。別のブランドの精油を売ることで、小売りマージンを稼ぎ、ライブラはただ、お人よしにも無料で場所を貸し続けていただけだった。

私は、O氏のその所業を訴え、先生はようやく理解してくれた。雨降って地固まるとはいうが、この話題のおかげかわからないが、いろいろと話がすすんだ。先生もかつては商社マンだったらしく、奥様は、あの巨人軍の管理栄養士として、NHKの番組でも知られる本多京子先生だという。

先生は、アロマテラピーのコースを開催されており私はそれに参加したいと申し出た。
私の同期には、福岡のルレアヒーリングの原さんがいた。そのほかにも、今では日本のアロマ界をしょって立つような人物が、次から次へとこの門をたたいている。

おそらくは日本のアロマ界の黎明期に、燦然と輝くアロマの登竜門であったことは間違いない。
現在アロマ界で、活躍するほとんどの先生方は、栗崎先生の門を一度はくぐったことがあるとおもう。
むしろ、ハーバードハウスにいっていない人はもぐりといえるかもしれないくらいである。

ハーバードハウスは、1998年ころだったろうか、原宿のモリハナエの横の路地をはいったところに、移転した。それから、しばらく先生もお元気だったが、2003年ごろ、愛弟子の池田亜衣先生、窪山先生たちが、残った生徒たちへ最後の授業をされて、静かに幕を下ろしたと聞く。

私は栗崎先生にずいぶんお世話になった。先生は糖尿をわずらっていたので、お酒は禁止だったが、私がいったときには、いつも、本多先生に内緒?で、シャブリの白ワインを空けた。ある意味、息子のようにかわいがってもらったとおもう。

本多先生とともに、 西宮で講演をおねがいしたこともあった。西宮市民会館の一室で栗崎先生と本多京子先生のご夫婦の講演会だった。料金は5000円、40人くらい集まったが、今から思えば、こんな豪華なセミナーをよくもまあ、できたものだとおもっている。

先生は、その後も私を、アロマの道にどんどんひっぱっていってくれた。私にとって忘れられない大恩人であるが、同業のライバルとして頭角を現す私はやがて先生に疎まれるようになったのかもしれない。
ふりかえって、例えれば、ちょうど、フロイトとユングのような難しい関係になっていったようにおもう。

最後にお会いしたのは、2005年ごろだったようにおもう。ハーバードハウスの同窓生の仲間、池田朗子さんから連絡があり、栗崎先生の健康を祈願してパーティがあるというのだ。
私は久しぶりにお顔を拝見した。先生は、「おお、林君か・・・」と,私の顔をみると静かにうなずいていた。

私は、このパーティの前に銀座の三越で先生にエンジ色のカーディガンをかってプレゼントした。
あとで聞いた話であるが、先生はとてもこのカーディガンを気に入って、林君にもらったといって喜んでおられたと聞く。私は、長く断絶してたわだかまりが解けたような安堵感につつまれた。

気難しい方でもあったので、敵の多い、先生だったが、やはり、この日本のアロマテラピー界において、
忘れがたい、偉大な指導者であったとおもう。

高山先生が著作で貢献したというならば、栗崎先生は人材の輩出で貢献した方だった。

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ハーバードハウスの全課程を修了したことを証明する卒業証書1992年10月26日である。
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続いて1年後マッサージのディプロマを取得した

※旧友、池田朗子先生(ロンドン在住)からの助言をいただき、文字の間違い、年の間違いなどを修正しました。ありがとうございました。2012年8月17日
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by libranatutherapy | 2012-08-12 09:27 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(6) 布引ハーブ園の思い出
新神戸駅の背後にある布引ハーブ園は、1991年の10月23日に開業した。その1年6か月前、当時の財団法人神戸市公園緑化協会の指名競争入札により、当社は312種類35000株のハーブの苗の育苗と、栽培マニュアルの作成、展示物の制作など総額400万円の仕事を受注した。

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一口にハーブといっても、ものすごい種類があった。ラベンダーは30種類以上、ゼラニウムは20種類以上、また、数も半端ではなかったイングリッシュラベンダーは5000株も作らなければならなかった。私は淡路島の伯父の農地にビニールハウスを建て、また父方の伯父の三田市の畑も借用して大量のハーブを栽培した。5000株ものラベンダーは挿し木ではとても間に合わなかった。

私は一粒一粒プラグと呼ばれる播種床に種をまき、間引きをし、ポットに植え替えるというノウハウを、淡路島の花卉農家から教わった。また、その農家にラベンダーの栽培を頼んだ。今では一宮町のお土産にハーブの苗が売られるようになったが、その時にかかわった人たちがされているのを知りうれしくなる。農家の生まれでない私だが、東京農大の通信教育で園芸を勉強し、そのころには、農家より農業のうんちくを知るようになっていた。接ぎ木、接ぎ芽、挿し木、摘花、剪定などの知識はいまでも役に立っている。

自然相手の仕事であるので四苦八苦しながらやっとのおもいで納品した。ラベンダー園には2000本以上を植えた。この仕事は我が家を挙げての仕事であったので、両親も一緒になって植え込みの仕事を手伝ってくれていた。私のハーブ屋としての仕事の始まりは、この両親なくしてはあり得なかったのである。

10月23日オープン当日、多くの入園者が押し掛けた。私も一人の入園者として園にいた。私は本音を言うと、ハーブ園の売店の仕事をしたかったのだが、まだまだ個人商店に過ぎない当社には声がかからず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのダイエーグループの新神戸オリエンタルホテルが受託を受けていた。

その仕事をさらに下請として受けていたのは、神戸市内のトーマスという会社であった、開園の少し前トーマスの政次社長が当社を訪れた。彼は元気満々の青年実業家で、私と同じく青年会議所のメンバーであることが分かった。政次社長は、その後にアロマテラピー協会の役員になられるのであるが、長いおつきあいの幕開けでもあった。

オープン後、展示品のボリュームが足りないと感じたハーブ園の管理者から、展示品の追加調達を依頼されることがよくあった。中には直径1mにも達する大きなハーブのリースや、ドライフラワーで作った暖簾のような展示物。それらをいつも手伝ってくれていたのは、妻の久美だった。当時長男が生まれかけで、臨月だったが、突然受注した、1mのリース作りに奔走してくれた。制作に使う、ドライハーブを調達するために、大阪久宝寺のドライフラワー屋さんのミルキーウェイさんに行き、屋根裏の倉庫に急な階段を上がった。そのあと、突然破水し、その十数時間あと、長男が生まれた。1991年11月21日のことであった。開業以来、まだ小さな個人商店に過ぎなかったライブラを彼女はよく支えてくれていた。

オープン後、ハーブ園は、大盛況を続けた。日本中の香りファンたちが訪れ、日曜日や夏休みはいつも行列ができていた。その人気に水をさしたのは、1995年1月の阪神淡路大震災であった。ハーブ園は休園を余儀なくされ、神戸への観光客の大幅な減少とともに、運営が厳しくなってきたときいている。
布引ハーブ園はその後、行政改革の波に飲み込まれ、公的な業務を民間に委託する指定管理者制度により何社かの運営を転々としているが、我が国の香り文化にこれほど大きな影響を与えた公営施設はほかには見当たらない。アロマの歴史において輝き続ける大きな存在感をいまも保ちつづけている。
そして、私たちが植えたハーブの子孫たちが、日本の香り文化のとともにその生命をつないでいくことを願っている。
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by libranatutherapy | 2012-08-06 15:05 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(5)香りのメッカ、グラース市訪問
一宮町とグラース市は、香りという共通点で友好都市提携をしていたというのは前回お話したが、いかにもアンバランスな提携であるといわざるを得ない。
かたや世界中の人々が知る香水の聖地グラース市であり、一方の一宮町は、日本人でも線香生産日本一の町であることを知る人は少ない。

このようなブログを通じて、我が母親のふるさと一宮町についてもっと知ってもらいたいので少し付け加えるが、一宮町は日本書記にも登場する香木伝説がつたえられる「枯木神社」のある町である。

聖徳太子のころ、淡路島の西海岸に大きな流木が流れ着いた。邪魔者あつかいして薪として燃やそうとしたところ、いかにも高貴な香りを発したことに村人は驚き、奈良の都までその噂が伝わった。この流木の一部は聖徳太子に献上され、太子はそれを使って仏像を彫ったという。そしてその一部は、一宮の海岸に面して建つ「枯木神社」のご神体として祀られていたが、宮司もいない小さな祠はやがて歴史の中にうずもれて行った。

一宮町とグラース市の提携を機に、何百年ぶりに白い布に包まれた香木が取り出され、一宮の観光ポイントとして祠が再建されたのである。

私は香りの館「パルシェ」の展示企画をするために、2度グラースを訪問した。観光親善の名誉副市長との肩書きのある、コストマニア氏を訪ねた。これも、資生堂さんへの突撃取材とおなじく、ほとんど何の手がかりもないままに、いきなり訪ねた。副市長というのでさぞ、年配の方かとおもいきや、当時30代前半の若さで、私も29歳だった。

コストマニア氏は私を歓迎してくれた。私は彼に会ったとき是非聞いてみたいことがあった。それはフランスのメディカルアロマテラピーの医師がどこかにいないかということであった。私はコストマニア氏に「日本ではアロマテラピーが注目されている。フランスにはアロマテラピーの医師がいると聞いたが、知らないだろうか?」と聞いてみた。
彼は一笑し、「アロマテラピー?ここは香水の町グラースだよ。そんなイギリス人の趣味につきあってはいられないよ。」これが答えだった。

私は愕然とした。日本で流布されているフランスアロマテラピーとは、実はごく一部の医師たちによる一部の研究にすぎなかったのだ。香水の聖地では、アロマなんかより香水という巨大ビジネスが彼らの第一の関心であり、これからグラース市の地元の香水を日本に紹介し、販路を広げるというのが、グラース市の目論見であることを思い知らされたのである。

私たちは、アロマの情報を限られた書物からしか得ていない。そのため、イギリスでは健康保険でアロマテラピーができる、とか、フランスでは医師がアロマテラピーをしている、などと、ありもしないイメージを持ちやすい。また、そのように精油の業者が「医療用精油」などと称したりもする。

本当はなんなのだろう。私たちは、未だに欧米に権威を感じ、その威光を利用した業者の偏った情報に惑わされやすい。そのような情報を鵜呑みにしないように注意が必要である。
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by libranatutherapy | 2012-08-06 15:02 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書 (4) 香りの村おこしと資生堂新規事業部
1988年から89年の竹下内閣の下、地方振興を掲げて1億円ずつが各市町村に配られた。
1996年のウルグアイラウンドの合意以降は、いろいろな形の補助金が地方にばらまかれていたが、そのネタに注目されたのが、ハーブと香りだった。新しい商品作物としてのハーブが注目されていたのである。このころ、北海道の北見ハッカ記念館、小豆島のオリーブ公園、民間では千葉県大多喜町のサンファームが知られていた。
私の住む兵庫県では、淡路島の一宮町に、兵庫県立淡路香り公園、続いて一宮町立淡路香りの館が開園された。私の母の実家はこの一宮町であった縁があり、私は地元で農業を営む伯父の紹介で香りの館「パルシェ」の企画を請け負うことになった。
一宮町はお線香の生産で日本一の、和の香りのメッカである。フランスのグラース市との友好都市提携に成功し、香りを前面に押し出した村おこしを仕掛けていた。

私は館内の展示物を手掛けた。その中で、香りの歴史の紹介の一つに、中国の悲劇の王妃、香妃を取り上げた。彼女は新疆ウイグルを支配する蒙古の末裔、ホジ・ハーンの妃で、その体臭が、沙棗(サソウ)の花の香りがすることで有名な女性である。私は香妃の展示をするために、沙棗の香りをはるばるウイグルにまで採取にったという資生堂の探検隊の話を作家、團伊玖磨さんのエッセイでみて知り、大胆にも資生堂に乗り込んで、飛び込みで取材をした。若さゆえの、無鉄砲な行動だった。当時はまだ30歳になったばかりだった。

その縁あって、その後も資生堂さんとの付き合いがあり、蘭の世界的な愛好家として知られる当時の福原義春社長、香りのオーソリティであった中村祥二先生方と、お酒をいただく機会を得ることができた。お二方ともにジェントルマンを絵にかいたような品のある方々で、バブル経済の余韻でまだ経済界にも余力が残っていた頃であったからだとおもうが、すべてにおいてエレガントそのものであった。

この私のこの唐突な願いを受け入れてくださったのは、当時の新規事業部島村部長だった。
島村さんは私の初期の恩人で、いろいろなチャンスを私に与えてくださった。
新規事業部は化粧品以外の事業を統括する事業部だったが、一億円の使い道の相談も多くよせられていたらしく、私は資生堂のスタッフとして岡山県上道町の農業公園の企画にも参加することができた。上道町のものは結局企画倒れだったが、資生堂のアートディレクターや、広告スタッフなど才能ある人々と一緒だったのは大きな財産となった。

私はこのように、一宮町、岡山県、神戸市の布引ハーブ園と、町おこし、村おこしの専門家として、力を発揮する舞台を得たのである。

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淡路島一宮町の 淡路香りの館 パルシェ
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by libranatutherapy | 2012-08-02 15:37 | アロマの履歴書