ライブラナチュテラピー株式会社 社長ブログ
ライブラナチュテラピー株式会社
アロマテラピーブランド「ライブラナチュテラピー」商品の製造販売やサロン運営、「ライブラ香りの学校」の運営など、全国を拠点として「セラピー」「癒し」をお届けしています。
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アロマの履歴書(7)日本のアロマの父、栗崎小太郎先生のこと
91年の暑い夏。お盆のころのこと。私はオリジナル精油「ライブラ」をもって、東京都内のハーブショップを行脚した。ハーブの本などの後ろに載っているハーブショップのリストを作り、それをもって都内のハーブショップに飛び込みセールスすることが目的であった。

最初は市ヶ谷から歩いたと思う、左手に靖国神社をみてしばらく行ったところの右手、ビルに中2階に「ハーバードハウス」というハーブのお店があった。これが以前、高山林太郎先生に教えてもらった栗崎小太郎先生のお店であることは知っていた。

入り口から入ると、「いらっしゃい」と、神経質そうな顔つきで自分の父親くらいの男性がでてきた。当時55歳くらいであられたとおもう。「わたくし、林と申しまして、大阪から来ました。エッセンシャルオイルをみていただけないかとおもいまして。」こういう私に、先生は顔色を変えて、「業者なら裏口から入りなおせ!」といって、私を一蹴した。私は、あわてて裏口へ。とはいっても3メートルほどおくの同じようなガラスドアだった。

彼は、「ライブラ?」聞いたことあるな?といって、再び顔色を変えた。
「お前のところのO氏ってやつに、精油を売ったが代金をもらっていないが!」と私に詰め寄った。
私は「O氏はライブラの人間ではありません。講習会に場所を貸したことがあるだけです。」
私は弁明した。そう、あの履歴書(3)の最後に登場したO氏である。O氏はライブラの教室で、ハーバードハウスで仕入れたロバートティスランドの精油を、私に隠れて密かに販売していたのだ。別のブランドの精油を売ることで、小売りマージンを稼ぎ、ライブラはただ、お人よしにも無料で場所を貸し続けていただけだった。

私は、O氏のその所業を訴え、先生はようやく理解してくれた。雨降って地固まるとはいうが、この話題のおかげかわからないが、いろいろと話がすすんだ。先生もかつては商社マンだったらしく、奥様は、あの巨人軍の管理栄養士として、NHKの番組でも知られる本多京子先生だという。

先生は、アロマテラピーのコースを開催されており私はそれに参加したいと申し出た。
私の同期には、福岡のルレアヒーリングの原さんがいた。そのほかにも、今では日本のアロマ界をしょって立つような人物が、次から次へとこの門をたたいている。

おそらくは日本のアロマ界の黎明期に、燦然と輝くアロマの登竜門であったことは間違いない。
現在アロマ界で、活躍するほとんどの先生方は、栗崎先生の門を一度はくぐったことがあるとおもう。
むしろ、ハーバードハウスにいっていない人はもぐりといえるかもしれないくらいである。

ハーバードハウスは、1998年ころだったろうか、原宿のモリハナエの横の路地をはいったところに、移転した。それから、しばらく先生もお元気だったが、2003年ごろ、愛弟子の池田亜衣先生、窪山先生たちが、残った生徒たちへ最後の授業をされて、静かに幕を下ろしたと聞く。

私は栗崎先生にずいぶんお世話になった。先生は糖尿をわずらっていたので、お酒は禁止だったが、私がいったときには、いつも、本多先生に内緒?で、シャブリの白ワインを空けた。ある意味、息子のようにかわいがってもらったとおもう。

本多先生とともに、 西宮で講演をおねがいしたこともあった。西宮市民会館の一室で栗崎先生と本多京子先生のご夫婦の講演会だった。料金は5000円、40人くらい集まったが、今から思えば、こんな豪華なセミナーをよくもまあ、できたものだとおもっている。

先生は、その後も私を、アロマの道にどんどんひっぱっていってくれた。私にとって忘れられない大恩人であるが、同業のライバルとして頭角を現す私はやがて先生に疎まれるようになったのかもしれない。
ふりかえって、例えれば、ちょうど、フロイトとユングのような難しい関係になっていったようにおもう。

最後にお会いしたのは、2005年ごろだったようにおもう。ハーバードハウスの同窓生の仲間、池田朗子さんから連絡があり、栗崎先生の健康を祈願してパーティがあるというのだ。
私は久しぶりにお顔を拝見した。先生は、「おお、林君か・・・」と,私の顔をみると静かにうなずいていた。

私は、このパーティの前に銀座の三越で先生にエンジ色のカーディガンをかってプレゼントした。
あとで聞いた話であるが、先生はとてもこのカーディガンを気に入って、林君にもらったといって喜んでおられたと聞く。私は、長く断絶してたわだかまりが解けたような安堵感につつまれた。

気難しい方でもあったので、敵の多い、先生だったが、やはり、この日本のアロマテラピー界において、
忘れがたい、偉大な指導者であったとおもう。

高山先生が著作で貢献したというならば、栗崎先生は人材の輩出で貢献した方だった。

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ハーバードハウスの全課程を修了したことを証明する卒業証書1992年10月26日である。
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続いて1年後マッサージのディプロマを取得した

※旧友、池田朗子先生(ロンドン在住)からの助言をいただき、文字の間違い、年の間違いなどを修正しました。ありがとうございました。2012年8月17日
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# by libranatutherapy | 2012-08-12 09:27 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(6) 布引ハーブ園の思い出
新神戸駅の背後にある布引ハーブ園は、1991年の10月23日に開業した。その1年6か月前、当時の財団法人神戸市公園緑化協会の指名競争入札により、当社は312種類35000株のハーブの苗の育苗と、栽培マニュアルの作成、展示物の制作など総額400万円の仕事を受注した。

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一口にハーブといっても、ものすごい種類があった。ラベンダーは30種類以上、ゼラニウムは20種類以上、また、数も半端ではなかったイングリッシュラベンダーは5000株も作らなければならなかった。私は淡路島の伯父の農地にビニールハウスを建て、また父方の伯父の三田市の畑も借用して大量のハーブを栽培した。5000株ものラベンダーは挿し木ではとても間に合わなかった。

私は一粒一粒プラグと呼ばれる播種床に種をまき、間引きをし、ポットに植え替えるというノウハウを、淡路島の花卉農家から教わった。また、その農家にラベンダーの栽培を頼んだ。今では一宮町のお土産にハーブの苗が売られるようになったが、その時にかかわった人たちがされているのを知りうれしくなる。農家の生まれでない私だが、東京農大の通信教育で園芸を勉強し、そのころには、農家より農業のうんちくを知るようになっていた。接ぎ木、接ぎ芽、挿し木、摘花、剪定などの知識はいまでも役に立っている。

自然相手の仕事であるので四苦八苦しながらやっとのおもいで納品した。ラベンダー園には2000本以上を植えた。この仕事は我が家を挙げての仕事であったので、両親も一緒になって植え込みの仕事を手伝ってくれていた。私のハーブ屋としての仕事の始まりは、この両親なくしてはあり得なかったのである。

10月23日オープン当日、多くの入園者が押し掛けた。私も一人の入園者として園にいた。私は本音を言うと、ハーブ園の売店の仕事をしたかったのだが、まだまだ個人商店に過ぎない当社には声がかからず、当時飛ぶ鳥を落とす勢いのダイエーグループの新神戸オリエンタルホテルが受託を受けていた。

その仕事をさらに下請として受けていたのは、神戸市内のトーマスという会社であった、開園の少し前トーマスの政次社長が当社を訪れた。彼は元気満々の青年実業家で、私と同じく青年会議所のメンバーであることが分かった。政次社長は、その後にアロマテラピー協会の役員になられるのであるが、長いおつきあいの幕開けでもあった。

オープン後、展示品のボリュームが足りないと感じたハーブ園の管理者から、展示品の追加調達を依頼されることがよくあった。中には直径1mにも達する大きなハーブのリースや、ドライフラワーで作った暖簾のような展示物。それらをいつも手伝ってくれていたのは、妻の久美だった。当時長男が生まれかけで、臨月だったが、突然受注した、1mのリース作りに奔走してくれた。制作に使う、ドライハーブを調達するために、大阪久宝寺のドライフラワー屋さんのミルキーウェイさんに行き、屋根裏の倉庫に急な階段を上がった。そのあと、突然破水し、その十数時間あと、長男が生まれた。1991年11月21日のことであった。開業以来、まだ小さな個人商店に過ぎなかったライブラを彼女はよく支えてくれていた。

オープン後、ハーブ園は、大盛況を続けた。日本中の香りファンたちが訪れ、日曜日や夏休みはいつも行列ができていた。その人気に水をさしたのは、1995年1月の阪神淡路大震災であった。ハーブ園は休園を余儀なくされ、神戸への観光客の大幅な減少とともに、運営が厳しくなってきたときいている。
布引ハーブ園はその後、行政改革の波に飲み込まれ、公的な業務を民間に委託する指定管理者制度により何社かの運営を転々としているが、我が国の香り文化にこれほど大きな影響を与えた公営施設はほかには見当たらない。アロマの歴史において輝き続ける大きな存在感をいまも保ちつづけている。
そして、私たちが植えたハーブの子孫たちが、日本の香り文化のとともにその生命をつないでいくことを願っている。
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# by libranatutherapy | 2012-08-06 15:05 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(5)香りのメッカ、グラース市訪問
一宮町とグラース市は、香りという共通点で友好都市提携をしていたというのは前回お話したが、いかにもアンバランスな提携であるといわざるを得ない。
かたや世界中の人々が知る香水の聖地グラース市であり、一方の一宮町は、日本人でも線香生産日本一の町であることを知る人は少ない。

このようなブログを通じて、我が母親のふるさと一宮町についてもっと知ってもらいたいので少し付け加えるが、一宮町は日本書記にも登場する香木伝説がつたえられる「枯木神社」のある町である。

聖徳太子のころ、淡路島の西海岸に大きな流木が流れ着いた。邪魔者あつかいして薪として燃やそうとしたところ、いかにも高貴な香りを発したことに村人は驚き、奈良の都までその噂が伝わった。この流木の一部は聖徳太子に献上され、太子はそれを使って仏像を彫ったという。そしてその一部は、一宮の海岸に面して建つ「枯木神社」のご神体として祀られていたが、宮司もいない小さな祠はやがて歴史の中にうずもれて行った。

一宮町とグラース市の提携を機に、何百年ぶりに白い布に包まれた香木が取り出され、一宮の観光ポイントとして祠が再建されたのである。

私は香りの館「パルシェ」の展示企画をするために、2度グラースを訪問した。観光親善の名誉副市長との肩書きのある、コストマニア氏を訪ねた。これも、資生堂さんへの突撃取材とおなじく、ほとんど何の手がかりもないままに、いきなり訪ねた。副市長というのでさぞ、年配の方かとおもいきや、当時30代前半の若さで、私も29歳だった。

コストマニア氏は私を歓迎してくれた。私は彼に会ったとき是非聞いてみたいことがあった。それはフランスのメディカルアロマテラピーの医師がどこかにいないかということであった。私はコストマニア氏に「日本ではアロマテラピーが注目されている。フランスにはアロマテラピーの医師がいると聞いたが、知らないだろうか?」と聞いてみた。
彼は一笑し、「アロマテラピー?ここは香水の町グラースだよ。そんなイギリス人の趣味につきあってはいられないよ。」これが答えだった。

私は愕然とした。日本で流布されているフランスアロマテラピーとは、実はごく一部の医師たちによる一部の研究にすぎなかったのだ。香水の聖地では、アロマなんかより香水という巨大ビジネスが彼らの第一の関心であり、これからグラース市の地元の香水を日本に紹介し、販路を広げるというのが、グラース市の目論見であることを思い知らされたのである。

私たちは、アロマの情報を限られた書物からしか得ていない。そのため、イギリスでは健康保険でアロマテラピーができる、とか、フランスでは医師がアロマテラピーをしている、などと、ありもしないイメージを持ちやすい。また、そのように精油の業者が「医療用精油」などと称したりもする。

本当はなんなのだろう。私たちは、未だに欧米に権威を感じ、その威光を利用した業者の偏った情報に惑わされやすい。そのような情報を鵜呑みにしないように注意が必要である。
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# by libranatutherapy | 2012-08-06 15:02 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書 (4) 香りの村おこしと資生堂新規事業部
1988年から89年の竹下内閣の下、地方振興を掲げて1億円ずつが各市町村に配られた。
1996年のウルグアイラウンドの合意以降は、いろいろな形の補助金が地方にばらまかれていたが、そのネタに注目されたのが、ハーブと香りだった。新しい商品作物としてのハーブが注目されていたのである。このころ、北海道の北見ハッカ記念館、小豆島のオリーブ公園、民間では千葉県大多喜町のサンファームが知られていた。
私の住む兵庫県では、淡路島の一宮町に、兵庫県立淡路香り公園、続いて一宮町立淡路香りの館が開園された。私の母の実家はこの一宮町であった縁があり、私は地元で農業を営む伯父の紹介で香りの館「パルシェ」の企画を請け負うことになった。
一宮町はお線香の生産で日本一の、和の香りのメッカである。フランスのグラース市との友好都市提携に成功し、香りを前面に押し出した村おこしを仕掛けていた。

私は館内の展示物を手掛けた。その中で、香りの歴史の紹介の一つに、中国の悲劇の王妃、香妃を取り上げた。彼女は新疆ウイグルを支配する蒙古の末裔、ホジ・ハーンの妃で、その体臭が、沙棗(サソウ)の花の香りがすることで有名な女性である。私は香妃の展示をするために、沙棗の香りをはるばるウイグルにまで採取にったという資生堂の探検隊の話を作家、團伊玖磨さんのエッセイでみて知り、大胆にも資生堂に乗り込んで、飛び込みで取材をした。若さゆえの、無鉄砲な行動だった。当時はまだ30歳になったばかりだった。

その縁あって、その後も資生堂さんとの付き合いがあり、蘭の世界的な愛好家として知られる当時の福原義春社長、香りのオーソリティであった中村祥二先生方と、お酒をいただく機会を得ることができた。お二方ともにジェントルマンを絵にかいたような品のある方々で、バブル経済の余韻でまだ経済界にも余力が残っていた頃であったからだとおもうが、すべてにおいてエレガントそのものであった。

この私のこの唐突な願いを受け入れてくださったのは、当時の新規事業部島村部長だった。
島村さんは私の初期の恩人で、いろいろなチャンスを私に与えてくださった。
新規事業部は化粧品以外の事業を統括する事業部だったが、一億円の使い道の相談も多くよせられていたらしく、私は資生堂のスタッフとして岡山県上道町の農業公園の企画にも参加することができた。上道町のものは結局企画倒れだったが、資生堂のアートディレクターや、広告スタッフなど才能ある人々と一緒だったのは大きな財産となった。

私はこのように、一宮町、岡山県、神戸市の布引ハーブ園と、町おこし、村おこしの専門家として、力を発揮する舞台を得たのである。

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淡路島一宮町の 淡路香りの館 パルシェ
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# by libranatutherapy | 2012-08-02 15:37 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(3) 日本初の精油ブランド 「ライブラ」
1990年の秋、ライブラエッセンシャルオイルシリーズを発売した。いきなり30種類程度のオイルを一気に発売した。ラベンダーは10ml ¥1500だった。私にとって人生をかけた大勝負ともいうべき、仕事だった。

というのも、1988年に開業したポプリ工房(後のライブラ)は、月の売上で数十万円、とても給料が取れる会社ではなかったのだ。仕入れをする資金を工面するのがやっとだったのである。

当初の材料は、香料会社を通じて手に入れることができたが、問題は瓶だった。アロマ用のドロッパー付の瓶を手に入れるは困難で、そのせいでシリーズ販売後も何度も瓶を変更した。

実はこの精油シリーズは、日本のアロマブランドとしては日本初だった。生活の木は今では有名になったロキシタンの精油をあつかっていたし、カリス成城はマギーティスランドの精油だった。
この時期、他に精油を扱っていたのは、サンファーム商事がロバートティスランド、西武百貨店が独自に六本木のWAVEでニールズヤードを販売していた。
このような状況であったから、英国ブランドの精油と肩を並べて、アロマテラピー用として販売を始めたブランドとしてライブラは日本初なのである。

私は勤務先から帰ると私は夜な夜なオイルを瓶詰し、店頭に並べた。しかし、まったくうれなかった。

このころから、ある女性講師O氏が東京でアロマを習ってきたといって、お店で講座をしたいといってきた。
私は、精油が販売促進に、それを許可した。当時は私はハーブ教室をしていたが、アロマの知識には自信がなかったので、一見よいコラボに思えたのだが、あとでこのO氏がとんでもない詐欺師であることが判明するのである。
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# by libranatutherapy | 2012-07-22 11:32 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書(2)「井戸を掘った人をわすれない」高山林太郎先生のこと
「水を飲むときは井戸を掘った人のことを忘れない」

日中国交を開いた民間人、岡崎 嘉平太氏に贈られた中国の周恩来の言葉である。

前回ご紹介した3つの書物をはじめ、日本のアロマテラピー界の黎明期に数々の本を翻訳し、日本に紹介したのは、高山林太郎先生であった。

彼は、精力的にアロマテラピーの本を見出し、翻訳し、1990年代前半のアロマテラピー関連書籍といえば、先生のものばかりであった。

私は、アロマテラピーを学ぶ学校がないかと思い、フレグランスジャーナル社に電話をした。

すると、その電話口に出たのは、高山林太郎先生だった。

「私、林と申しますが。。。」と名乗ると、その向こうで、「高山です。」と、紳士的な低い声が聞こえた。

出版社の事務所の電話に、高山先生が出られたことが、何とも最初理解できなかったが、
確かに高山先生らしい、、、。

「アロマテラピーの高山先生ですか?」と私は失礼ながら聞き直してしまった。「そうです、高山です」

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それだけでも、舞い上がるような気持ちであったが、私は、さらに続けて日本にアロマテラピーを教えてくれる学校はないものか、尋ねてみた。

「九段のハーバードハウスというところに、イギリスのティスランドの学校に行った先生がいますよ。」

と教えてくれた。

その、助言により私は、生涯の恩師、栗崎小太郎先生と出会うことになり、アロマテラピー専門家としての一歩を踏み出すことになるのだが、この電話の偶然は今も忘れられない。

高山先生とは、その後、淡路島一宮町のパルシェを会場にした当社主催の講演会の講師としてお越しいただいた。先生は、淡路島の温暖な気候と植物の豊かさに関心されていたことを今も思い出す。

私にとっても、日本のアロマテラピーにとっても、忘れることのできない恩人のひとりである。
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# by libranatutherapy | 2012-07-17 08:40 | アロマの履歴書
 
7月19日 林伸光 監修の本がでます。
「読む・書く・受かる!アロマテラピーインストラクター試験完全マスター 試験範囲を徹底網羅した参考書」BABジャパン、義野七瀬著、林伸光監修 7月19日発売

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石鹸本に続く、私の名前の出版本がでます。
といいましても、間違い探しを中心とした校正のようなことをやったのですが。
一言にいいますと、コツコツ勉強するひとには、とても参考になる本とおもいます。

最初、重要語句(マークされた語句)が、重要語句とは的外れとおもっていて、なおそうとしたのですが。
校正が進むうちに、著者がどうして、この語句をマークしているかだんだんわかってきて、
最終的には、著者の元のマークに戻すということがありました。

通常、重要語句は、覚えなければならない語句にマークをするのですが、
著者の義野さんは、重要語句を説明するための語句にマーク(赤文字)をし、

ちょうど、高校生のときにやったように、緑の下敷きで、透かして見ると、
その重要語句に続いて、説明用語句が見えなくなり、暗記に役立てるという方法をとっていたのです。

私は、まだ義野さんには、お会いする機会を得ていませんが、すごく真面目でコツコツと
勉強してきた方なのだろうと想像できます。

とくに、独学を目指すかたにとって、この本はコンプリートブックとならぶ、参考書となることでしょう。
少しだけ欠点をいえば、知識が断片的な語句説明に陥り、つながりがわかないところでしょう。

それは、コンプリートブックが解決してくれるとおもいます。

認定校の講師の先生にもおすすめです。教え方に、さまざまなヒントを提供してくれるかもしれません。
久しぶりに楽しみな、一冊です。
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# by libranatutherapy | 2012-07-16 12:22 | 執筆活動・書評
 
「アロマの履歴書」(1) 出会い
1988年、私は「ポプリ工房」という名の小さなハーブショップを実家のビルの2階(兵庫県西宮市。現、ライブラ本社の地)に開いた。ドライハーブや精油、書籍、種苗が主な商品であった。

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しかし、精油の使い道は、あまりよくわからなかった。ポプリの香りづけにしては高価なもので、しかも今のアロマテラピー用と違ってドロッパーではなく、香料用のアサガオ瓶にはいっていた。

この精油を勉強するために、私は商品として仕入れたアロマテラピーの本を読んでみた。

本は三冊しかなく、ロバートティスランドの『アロマテラピー』、ジャンバルネの『植物』、シャーリープライズの『実践アロマテラピー』だった。私はティスランドから読み始めた。
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ティスランドの本を読んだ私は、アロマテラピーが似非(えせ)科学のように思えた。

精油の成分のテルペンやエステルといった化学用語とともに、カルペッパー流の支配星、東洋の陰陽の性質などが記されていた。

この科学と神秘主義が同居する理解不能な学問に、ちょうど、新幹線の運転手が僧侶の袈裟を着て運転しているような違和感を覚えたのである。

これが私とアロマテラピーの最初の出会いだった。
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# by libranatutherapy | 2012-07-16 09:21 | アロマの履歴書
 
アロマの履歴書 はじめます・・・「アロマの履歴書」プロローグ
2012年4月20日、私がはじめた、アロマとハーブの仕事が25周年めの年度を迎えます。
それは、日本にアロマテラピーを普及することに力を尽くした四半世紀といっても、そろそろ許してもらえるかな?
と、すこし遠慮がちに、そして誇りをもって、アロマテラピーに関する、他では聞けないエピソードを書き綴ろうかと、思い立ちました。
ライブラ香りの学校の生徒さんにとどまらず、多くの人に、日本におけるアロマテラピーの歴史がどのように作られたかを残しておかなければならないとおもったからです。
次回から、何回の連載となるかわかりませんが、ネタ尽きるまで書き続けていきたいと思います。
みなさん、よろしくおねがいいたします。
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# by libranatutherapy | 2012-07-15 23:58 | アロマの履歴書
 
漢方とアロマテラピー(田代眞一先生講演会)
漢方とアロマテラピーって、似てるようで違うようで、もっと知りたい。そんな疑問を田代先生に聞いてみませんか。林(私)がお世話をしている、日本セラピスト登録協会の講演会に、漢方薬、生薬の権威、田代眞一先生がやってこられます。RQTのセミナーは、30名以内程度の少人数制なので、先生に直接質問もしやすいので、大好評。しかも、講師は人気があって、雲の上の人のような先生たちばかり。
このチャンスを逃さないでくださいね。

講師:田代眞一先生

病態科学研究所所長、元昭和薬科大学教授、
瀋陽薬科大学中日医薬学研究所名誉理事
京都大学、東京女子医科大学講師。
日本医療福祉学会会長、和漢医薬学会監事、日本疫学学会評議員などを歴任
乳房文化研究会会長、RQT会長


テーマ「漢方とアロマテラピー」

「ビールを飲んで通風を治す!」(角川書店)などユニークな視点から病気と未病を論じてこられた、
田代先生に、生薬としての漢方と精油の共通点、相違点、これからのアロマテラピーの可能性を
熱いメッセージを込めて話していただきます。


日時:7月29日(日) 13:15~14:45
会場:大阪 西梅田 会議室ユーズツゥ (ヒルトンプラザウエスト裏)

会費:4000円

※ 先日の告知では、3500円となっておりましたが、間違いでした。お詫び申し上げるとともに
訂正させていただきます


参加お申込み: 06-6343-2215 school@libra-kobe.co.jp (担当:新野)

講演会後は、有志の懇親会も予定しております。
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# by libranatutherapy | 2012-07-14 17:53 | アロマのお勉強